駆逐艦『五月雨』(白露型駆逐艦六番艦)艦暦 |
1934(昭和9)年12月19日 | 起工(浦賀船渠)。 |
1935(昭和10)年7月6日 | 進水(浦賀船渠)。 |
1937(昭和12)年1月29日 | 竣工 (横須賀鎮守府に配属。) |
1941(昭和16)年12月 | 第二駆逐隊(他に村雨・夕立・春雨)を編成、第四水雷戦隊に所属。 太平洋戦争開戦時、比島ビガン攻略作戦、スラバヤ沖海戦など参加。 |
1942(昭和17)年6月上旬 | 攻略部隊(第二艦隊)の一員として、ミッドウェー海戦に参加。 |
1942(昭和17)年7月28日〜 〜8月8日 | インド洋通商破壊作戦(B作戦)に参加 |
1942(昭和17)年11月 | 第三次ソロモン海戦に参加 その最中、敵艦と間違えて『比叡』を誤射。高角砲で反撃されるというミスをしている。 |
1943年(昭和18年)1月 | ウエワク輸送作戦参加。 |
1943年(昭和18年)7月29日 | 第二駆逐隊解散。 第四水雷戦隊司令部附属となった。 |
1943年(昭和18年)7月12日 | 第四水雷戦隊解散。司令部が第二水雷戦隊へ組織変更となったことに伴い、第二水雷戦隊所属となった。 |
1943年(昭和18年)7月29日 | キスカ島撤退作戦に警戒隊の一員として参加。 |
1943年(昭和18年)10月1日 | 第二十七駆逐隊(白露・時雨)に編入。 11月31日に『春雨』が編入され、4隻体制となった。 |
1943年(昭和18年)11月2日 | ブーゲンビル島沖夜戦に参加。僚艦『白露』と衝突事故を起こしてしまった。 |
1943年(昭和18年)11月5日 | 停泊先のラバウル泊地で空襲に遭う(ラバウル空襲)、 |
1943年(昭和18年)11月15日 | 第三次ソロモン海戦で大破・沈没した『霧島』乗員救助を、朝雲・照月とともに実施。
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1943年(昭和18年)12月下旬〜 (2箇月間ほど) | 軽巡洋艦『夕張』とともにトラック島から横須賀まで帰投(12日出発〜19日到着)。横須賀にて修理を受ける。 |
1944年(昭和19年)3月〜 〜5月 | 内地〜サイパン、トラック島への船団護衛に従事。 4月27日、同行していた軽巡『夕張』が米国潜水艦『ブルーギル』雷撃により航行不能に。駆逐艦『夕月』とともに曳航しようとするものの失敗。翌28日に『夕張』沈没。 |
1944年(昭和19年)5月下旬〜 〜6月初旬 | 第十六戦隊指揮下の元、渾作戦に従事。 6月8日、第2次渾作戦発動。最中に『春雨』が敵軍航空機の空爆により沈没。 |
1944年(昭和19年)6月19日〜 〜20日 | マリアナ沖海戦に参加 |
1944年(昭和19年)7月8日〜 〜16日 | 戦艦武蔵らを護衛し、呉を出港。リンガ泊地へ向かう。 最中の14日午前3時、南西風15mなどの影響を受けて艦隊から落伍、行方不明となってしまった。その後、重巡『利根』に発見され事なきを得る。16日にリンガ泊地へ到着した。 |
1944年(昭和19年)8月7日〜 | 第十六戦隊指揮下の元、マニラ〜パラオ輸送作戦に従事。 |
1943年(昭和19年)8月18日〜 〜26日 | パラオ近海・ガルワングル環礁にて座礁。 その後は仲間による離礁・救助作業が行われるものの難航、敵軍航空機の標的に晒される。最終的に敵潜水艦『バットフィッシュ』による雷撃で船体断裂し、放棄される。乗員は駆逐艦『竹』により救助された。 |
1944年(昭和19年)10月10日 | 除籍。 第二十七駆逐隊解散、1隻残った時雨は第一遊撃部隊第三戦隊(西村艦隊)所属となった。 |
改定前の白露型前期型最終建造艦であった。作戦に従事し、多くの海を縦横無尽に駆け回った10年余りの艦生であった。 その後、この名を受け継いだ海上自衛隊護衛艦『さみだれ』(むらさめ型護衛艦六番艦,DD-106)として1997年9月11日、石川島播磨重工業東京第1工場にて起工。2000年3月21日に竣工している。むらさめ型護衛艦の艦名には、嘗ての第二駆逐隊時代の姉妹艦の名(DD-101むらさめ,DD-102はるさめ,DD-103ゆうだち)が受け継がれている。白露型駆逐艦時代も六番艦であったが、護衛艦になっても六番艦…奇遇なのか偶然なのか。 ちなみに駆逐艦『五月雨』慰霊碑は神奈川県小田原市の『東善院』に建立されている。
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