戦艦『長門』(長門型戦艦一番艦)艦暦 |
1920(大正9)年11月25日 | 竣工(呉海軍工廠)。横須賀鎮守府に所属 |
1923(大正12年)9月1日 | 関東大震災発生。遠方より救援物資を積み込み、被災地へ急行 |
1941(昭和16年)12月 | (2日)暗号電文『ニイタカヤマノボレ1208』打電。 (8日)機動部隊により真珠湾攻撃成功の報を受け、退却支援として数隻を率いて出撃。
(13日)桂島泊地に帰投。 |
1942(昭和17年)2月12日 | 連合艦隊旗艦の任が戦艦大和に移される。 |
1942(昭和17年)6月 | ミッドウェー海戦の主力部隊として出撃。 戦没した空母『加賀』の生存者を救助に当たった駆逐艦より収容。帰国させている。 |
1944(昭和19年)10月 | リンガ泊地に停泊する大和・武蔵の乗員がシンガポールで休養する際、人員輸送艦として用いられた。 (下旬)第二艦隊の一員としてレイテ沖海戦に出撃。 |
1945(昭和20年)7月18日 | 横須賀空襲が発生。 特殊警備艦(浮き砲台)として係留されていた本艦は爆撃を受け、損傷を負っている。 |
1945(昭和20年)8月15日 | 太平洋戦争(第2次世界大戦)終戦。戦艦で唯一、稼動可能な状態で残る。 |
1945(昭和20)年9月15日 | 除籍。米軍に接収される。 |
1946年(昭和21)年3月18日 | 軽巡洋艦『酒匂』と共に、ビキニ環礁に向け出航。 米軍老朽艦などと共に、原爆実験『クロスロード作戦』の標的艦にされる。 |
1946年(昭和21)年7月1日 | クロスロード作戦『ABLE(空中爆発)』実行。爆心地側の甲板の一部融解 |
1946年(昭和21)年7月25日 | クロスロード作戦『BAKER(水中爆発)』実行。船が数度傾いたが浮き続ける。 |
1946年(昭和21)年7月29日 | 船体への浸水により、ビキニ環礁の海底に没する。 |
現在でも、現地でダイビングをすれば見ることが出来る。『世界のビック7』と言われた戦艦の中で唯一、形を留めているが、逆さまの状態で沈んでおり、艦橋は折れてしまっているようである。
戦艦大和・武蔵が極秘の存在とされていた当時、日本にとって誇りであった戦艦長門・陸奥。
この艦船のエピソードとして有名なものとすれば、やはり関東大震災発生時、救援物資を積んで東京まで急行したものだろう。当時、公表されていた速度は23ノット(実際は26.5ノット)であり、実際の速度は最高機密となっていました。被災地へ向かっている際、当時の同盟国であったイギリスの巡洋艦『プリマス』が並行して被災地に向かって航行しており、機密がばれてしまう恐れすらありました。実際、その本当の速度はばれてしまいますが、それよりも被災地へ一時でも早く向かうことが第一だと、この時ばかりはその機密を順守しているわけにもいかず、全速力で被災地へ向かいました。震災当時、絶望のどん底へと叩き落されていた被災者の方々にとって、救援物資を積んで東京湾へと表れたこの艦船は、なにより『希望の艦』だったに違いない。
しかし、太平洋戦争が勃発した後は、自身が戦うことなく大敗していくのを、ただ見守るしかなくなっていく。時は既に戦争の主戦力が戦艦から航空機へと移った後。それでも温存戦力とされ、出撃することがほとんどなく、戦争が終わった頃には、既に妹分であった陸奥はなく(昭和18年6月8日、瀬戸内海で停泊中に第三砲塔の爆発により爆沈)、連合艦隊旗艦を務めた仲でもあった大和・武蔵も戦没。戦争末期には横須賀で浮き砲台となり、終戦までを唯一稼動が出来る状態で生き残った。
事実上、最後の戦地…ビキニ環礁で、敵わない相手である原子爆弾との戦いに挑み、2度の爆発実験にも耐え抜く強靭さを見せた。しかし最後は沈んでしまうのだが、2度目の実験からの5日間、最後の踏ん張りを見せ(海に沈んだ英霊たちが支えていたとも言われている)、そして、沈む姿を誰にも見せなかった。恐らくそれは、先に戦没してしまった僚艦たちと違い、まともに戦うことも出来なかったことに対する己への悔やみか、敵であったアメリカ軍に対して、自身の最後を見せまいとした最後の抵抗か。或いは、自身を建造し、そして自身が属した帝国海軍と、自身が守ろうとした『日本(大日本帝国)』の誇りを、最後まで守り抜こうとしたのかもしれない。米軍に接収されながらも、星条旗を掲げさせられながらも、それでも日本海軍の誇りであり、日本海軍の総旗艦…連合艦隊旗艦であった、最後の意地を、最後の戦いで見せたのかもしれない。 |